chofchof's blog

神戸在住の社会人四年目。趣味と実益を探し求める日々。

長すぎるつぶやきのようなもの

こんにちは。大寒波が列島を襲っている本日、神戸は快晴です。


予定のない日曜日、荒れるだろう、なんなら積雪もあるだろうと思って昨日から食事を準備し、買ってきた本と雑誌をベッドサイドに置いていたわけです。
が、のんびり起きてみると気持ちのいいお天気じゃありませんか。
家の中にこもっているなんてもったいない。
映画でも見ようと三ノ宮まで出てきました。

というのも、OSシネマズで使える映画のチケットを持っていたからです。
が、そんなに見たい映画がちょうどいい時間帯でやっていない。だからいっそのこと、一番後ろの席で3回目のスターウォーズを堪能することにしました。上映時間まで楽しみ。


映画、、、25歳という中途半端な年の私は何を見るのがメジャーなんだろう。
妖怪は私より一回りくらい上の方々にウケるように作られているし、純粋な恋愛モノは女子高生の物だ。
一人でアニメ作品を見るほどオタクではないし、偉人ドキュメンタリーは大抵朝イチか夜遅くしかやってない。
自分で楽しむ分には誰とみてもいいのだけれど、友達と感想を分かち合ったりするような機会が、ここ数年で激減したことに気づき悲しくなる。
これは社会人あるあるなんだろうか。それとも周りと溶け込むのが苦手な私特有のものなんだろうか。
どんなにネットワークが発達しても、見た映画の感想を言い合うには物足りないし、そんなに頻繁にメールも電話もLINEもしない。
映画だけじゃなくて、漫画も、アニメも、テレビも、音楽も、全部そうだ。
「流行り」から取り残されている。
だからこそ、一番流行りの大衆映画を見ているのかもしれない。(もちろんスターウォーズはでずにーがどんなに宣伝頑張ろうと関係ない。見るもんは見る、好きなもんは好きだ。)


そもそ「流行り」って結局は自分に近しい人たちだけでの共通事項、だと思う。
クラスではやっている遊びや言葉遣いが、まるで世界共通みたいに思い込んでしまう。
実際、個人の持ちうる世界なんて、その他全部の世間よりずっともっと狭くて偏っていて独断と偏見に満ちたものだろう。

私以外の結構多くのオトナたちは、普段過ごす人たちが友達から同僚や先輩に変化し、お互いの距離の測り方がわからないものなんだろう。
職場の先輩たちと共通の話題なんて仕事しかない。だけど好きでやっているわけではない、専門でもない仕事の話なんてしたくないからナチュラルな会話がない。
この曲よかったですよー、とか、スターウォーズ最高だよね!というのも話せない。つまんないなあ。世界が広がっていかないんだもの。
趣味とか好きなものが同じ人が職場にいないっていうのは、割とちょっとキツいなあ、と思う。



金曜日、久しぶりに幼馴染にあった。

一人は、音楽の専門学校を出て、クリニックの事務をしながら若き内科医と付き合っている。恋愛トークをひたすら話す、オンナノコだ。
一人は、メーカーの一般事務をしながらバツイチ男性と付き合っている。子供産んだらパートはするかな、といっている現実派だ。

三者三様の彼女たちとの時間はとても新鮮だった。おいしいものを食べながらビールを飲み、美容のレクチャーを聞き、お互いの彼氏の写真を見せ合うように強要され(それに何の意味があるのかさっぱり理解できないのだが)、なんていうかとても貴重で中学生みたいな気楽さがあった。
最近大学時代の友人と飲んだりすると、将来のキャリアの話とか、出産したら働けなくなるからタイミングが難しすぎるとか、そもそも働き続けることがこんなに大変だと思わなかったよね、とか、
とにかく明るくない話題をさらけ出してみんなでなめあう時間になってしまうのだが。
同じ25歳でもメンバーが違うとこんなにも違う。とても心地のよいオプティミズムだった。

帰り際に幼馴染の一人が言った。
「今の25歳を楽しみなさいよー」
そっか。私まだ25歳だった。彼女の認識では、まだまだ若くて気楽でいい年なのか。そうかもしれない。私たちはまだ若い。