晩夏
高校の下校中の電車内のこと。私は英単語帳を眺めてため息をついた。学校が終わったら毎日、塾。
いつも何かに追われている。やりたくなくて、明確な目標がないことに追われている。
すごく胸が詰まるし、体と頭にうまく酸素が入ってこない感じがする。
うまく息を吸えないまま、また吐き出した空気はやはりため息になった。
ほら、と向かいに座っていたおじさんに声をかけられた。
月が綺麗だよ。
知らないおじさんはそれだけ言うと、さっさと電車を降りてしまった。
そして私は振り返って、久し振りに空を見上げた。電車に乗ってから始めて単語帳から目を挙げた。どうして気づかなかったのか、こんなに大きな明るい月を。
肺が少しだけ潤って、グインと伸びて、酸素がたくさん入ってきた感じがした。
それからは、出来るだけ言うことにしている。
見知らぬ誰にでも効くおまじないだ。
ほら、月が綺麗だよ。